天文12年(1543年)大田原資清によって築かれた。 大田原氏は那須七騎の一つに数えられ、資清のときに水口館から大田原城を築いて居城を移しており、それまでの「大俵」から「大田原」氏へと名を改めた。
天正18年(1590年)大田原晴清は、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、大田原氏は主家那須氏に先んじて小田原に参陣し、沼津の陣営で豊臣秀吉に謁見、本領七千石余を安堵された。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦においては、上杉氏の動向を探り、また上杉氏に対する備えとして徳川氏の支援を受けて城を拡張した。慶長7年(1602年)には四千五百石余を加増され、併せて一万二千石余となって大名に列した。
大田原藩は寛文元年(1661年)三代大田原高清が家督相続したとき、弟為清に一千石を分与して一万一千石余となり、以後代々続いて明治に至る。
大田原城は蛇尾川に面した城山に築かれており、現在は龍城公園として整備されている。
城は本丸を中心に南に二の丸、北に北曲輪、南西麓に三の丸、西麓に西曲輪などがあった。本丸は高土塁が巡り、南に「台門」と呼ばれる櫓門、西は裏門があったが、台門周りに唯一石垣が使われていたようである。
本丸の南に空堀があって、その先の二の丸辺りは公園化が進み、低い土塁が確認できる程度である。北曲輪は高土塁があり、東側面に横堀となる。西下には坂下門跡の土塁や堀の名残が確認できる。
西麓に無料駐車場がある。
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