明応3年(1494年)大田原康清によって築かれたと云われる。 大田原氏ははじめ大俵と表記、後に資清のときに大田原と改めている。武蔵七党の一つ丹党を出自とし、阿保氏を称していたが、康清のときに那須氏に仕えて水口に館を築き居城としたと伝えられる。
永正15年(1518年)大田原資清のとき白旗城主大関宗増と福原城主福原資安によって失脚させられ、水口城を捨てて逃れていたが、天文11年(1542年)に復帰すると、白旗城主大関宗次を攻めて自刃に追い込み、子の高増を大関家の養子として送り込んだ。さらには福原氏にも資孝を養子として送り込み、那須七騎のうちの三家を支配することとなる。天文12年(1543年)には大田原城を築いて居城を移し、水口館は廃城となった。
水口館は現在水田となっているが、北側の土塁などが遺されており、市指定史跡となっている。
館は方形居館であったようだが、北東の土塁は内側に折れており、鬼門除けの入隅とっている。南東側は空堀跡と思われる幅広の別区画が残っている。