築城年代は定かではないが平安時代末期に須藤権守貞信によって築かれたと云われる。
須藤貞信は那須家の祖で、築地館は未完成のまま神田城に移ったという。また一説に貞信の子孫資隆が築城したともいう。
築地館は別名大館とも呼ばれ、その規模は南北280m、東西180mである。明治25年5月29日の川西村役場史料(「那須与一とその時代」に掲載)に大館の図があり、これを見ると南端の土塁が東隅部をそのまま東へ伸びているのがわかる。また曲輪の北四分の一程の所に西端の土塁から東に向かって中程まで伸びる土塁が描かれており、内部も区画され、東にも複郭が広がっていた可能性がある。土塁底辺の幅は10m〜16m程、堀は南にしか描かれていないが幅16m程とかなり大きい。
築地館のあった辺りは水田や宅地となっていて土塁の残欠が残っていると云われるが、どこにあるのかさっぱりわからない。