築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に大関増清によって築かれたと云われる。 増清が白旗城を築いて大関城より移った。しかしその後も十一代大関増雄の時に八幡館、十二代大関宗増の時に大関城、十三代増次の時には再び白旗城を改修して移り、天正4年(1576年)十四代大関高増の時に黒羽城を築いて居城を移している。
大関宗増と福原資安は、主家那須氏の信頼の厚い大田原資清を陥れ永正15年(1518年)大田原氏を攻めてこれを敗った。資清は越前国の永平寺に落ち仏門に入ったが、天文11年(1542年)越前朝倉氏の支援を受けて大関増次(宗増の嫡子)の籠もる白旗城を奇襲し、増次は石井沢にて自刃して果てた。増次には嫡子なく大関城に隠棲していた父宗増は大田原氏と和睦し、大田原資清の長男高増を養子に迎えて大関氏の家督を継がせた。これにより、大関氏は事実上大田原氏に乗っ取られる形となった。
白旗城は湯坂川に沿って南東方向に舌状に伸びた丘陵の先端に築かれている。
白旗城は舌状に伸びた尾根を空堀で区画した連郭式の城である。城の北端は賀茂神社の辺りでそこから南東に向かって二の丸・本丸と続き、その先にも数郭の曲輪が連なっている。
本丸はほぼ中央にある曲輪で愛宕神社が祀られている。北にあるのが二の丸で、二の丸は中央部に浅い堀状の溝があって南北に区画され、南端と北端の堀に面して土塁が残っている。
国道461号線沿いにある道の駅「那須与一の里」から800m程東へ進んで信号のある丁字路を北へ曲がる。そのまま余瀬地区の西教寺を目指して北上していくと左側に案内板が設置されており、専用の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)