応永12年(1405年)頃に斯波義重によって築かれたと云われる。 斯波義重は尾張守護職であり守護所である下津城の別郭として築いたものとされ、鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝に位置している。
文明年間(1469年〜1487年)に尾張国守護代は斯波氏・織田敏広と幕府が後押しする織田敏定で争われた。やがて岩倉城織田伊勢守家が尾張上四郡守護代、清洲城織田大和守家が尾張下四郡守護代となって尾張を支配するようになった。
天文23年(1554年)尾張守護斯波義統は、清洲城主で尾張下四郡守護代の織田信友によって謀殺された。義統の嫡男斯波義銀は那古屋城の織田信長を頼ると、信長はこれを機に主君である織田信友を討ち、弘治元年(1555年)清洲城に入城した。永禄3年(1560年)桶狭間合戦はこの清洲城から出陣している。永禄6年(1563年)には美濃斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移っている。
本能寺の変の後、尾張国は信長の二男織田信雄の所領となった。信雄は清洲城を大改修しており、天守や三重堀などを普請している。天正12年(1584年)小牧長久手合戦で、徳川家康と織田信雄は羽柴秀吉と対峙したが、和睦となった。天正18年(1590年)小田原征伐の後、織田信雄は徳川家康の旧領へ転封を命ぜられたがこれを拒否したため、改易となり下野国烏山へ配流となった。
文禄4年(1595年)福島正則が伊予国国分山城から二十四万石に加増され清洲城に入城、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で東軍に属した福島正則は安芸国広島へ転封となり、家康の五男松平忠吉が清洲藩五十二万石として入封した。しかし忠吉は慶長12年(1607年)に関ヶ原合戦の負傷がもとで嗣子なく没し、徳川義直が入封した。
慶長14年(1609年)徳川家康は清須の廃都、名古屋遷都を命じ、清洲の部材は名古屋へ転用され慶長15年(1610年)いわゆる「清洲越し」が完了した。
清洲城は五条川沿いに築かれており、現在は清洲古城跡・清洲公園となり、対岸に清洲城の模擬天守が建てられている。川沿いには発掘された本丸南側の石垣と考えられている部分が復元展示されている。南にある清洲公園には織田信長と濃姫の像が建つ。
天守(模擬 天守)