尾張守護代織田敏広の居城で守護所であった。
文明8年(1476年)尾張の又代織田敏定によって下津城は焼かれたが、その後の戦いで敏定は敏広に敗れて京へ逃れた。文明10年(1478年)幕府は織田敏定を守護代に補任し、敏広は幕府の後ろ盾を得て美濃の斎藤妙椿の援軍を受け尾張へ侵攻した。当初は順調に勢力を拡げていたが、間もなく斎藤妙椿が斯波氏・織田敏広方となり、敏定は勢いを失い清洲城に立て籠もることとなる。これは敏広の正室が妙椿の女であった縁からと云われる。劣勢に陥った敏定を助けるべく、幕府は敏広方に和平の使者を送り、織田敏定を尾張二郡の守護代とすることで決着した。
敏広は文明11年(1479年)に岩倉城を築いて居城とし、岩倉織田家の祖となった。
下津城は下津小学校の西側一帯に築かれていたという。県道155号線沿いに石碑が建っており、周囲より一段高く、この辺りが本丸趾という。