天文年間(1532年〜1555年)増田(ました)長盛の屋敷があった所とされる。増田長盛はこの中島郡増田村を出自とする説、あるいは近江国浅井郡益田郷を出自とする説がある。
増田長盛は羽柴秀吉に仕えて出世し、天正18年(1590年)には近江国水口岡山城主となり、文禄4年(1595年)には大和国郡山城主となって二十万石の大名となった。関ヶ原合戦では西軍に属して改易となり、高野山へ預けられた。
現在八幡社の境内に増田長盛邸址の碑が建っている。出自自体が定かではないのでここに屋敷があったのかどうかも定かではないが、この辺りは「元屋敷」という地名である。