築城年代は定かではないが溝口勝政によって築かれたと云われる。 溝口氏は甲斐源氏逸見又太郎義重を祖とし、承久の乱で美濃国山県郡大桑郷を賜り代々住んでいたが、応永年間(1394年〜1428年)に尾張国中島郡溝口へ移り住み溝口氏を称したことに始まるという。その後、勝政の代に溝口城を築いたという。
溝口勝政の子が溝口秀勝で、はじめ丹羽長秀に仕えていたが信長の直臣となり、若狭国高浜城主となる。天正11年(1583年)柴田勝家が羽柴秀吉に敗れて滅亡すると、丹羽長秀の与力として加賀国大聖寺城主となった。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると、越後国新発田城主となり江戸時代を通じて新発田藩として続いた。
溝口城は成願寺の南方にある字「坪之内」一帯に築かれていたという。 「坪之内」一帯は水田となって遺構はないが、成願寺に石碑が建っている。
県道128号線沿いにある成願寺は非常に小さなお寺で、一見個人宅のような佇まいをしている。