築城年代は定かではないが新発田氏によって築かれたのが始まりとされる。 新発田氏は佐々木加地氏の分流である。
新発田長敦の頃に上杉謙信に従うようになり揚北衆の一人となった。天正6年(1578年)上杉謙信の跡目争いで御館の乱が勃発すると、長敦は上杉景勝方として活躍する。しかし、その後の恩賞の問題で失意の内に病没、家督は弟で庶流の五十公野家を継いでいた五十公野治長が継ぎ、新発田重家と名乗った。
天正9年(1581年)新発田重家は上杉景勝に謀叛を起こして独立する。この頃上杉景勝は北陸方面で織田軍と戦うなど、兵力が分散、重家も会津の蘆名盛隆らの支援を受けており、反乱は長期化する。しかし、天正15年(1587年)ついに五十公野城などの周辺諸城も陥落、新発田重家は城を討って出て自刃して果てた。
慶長3年(1598年)溝口秀勝が加賀国大聖寺から越後国蒲原三郡六万石で入封すると、新発田氏の居城を取り込む形で近世新発田城を築いた。溝口氏は外様でありながら転封がなく、代々新発田藩として続いて明治に至る。
新発田城は平城で本丸を二の丸が取り囲み、南に三の丸が築かれていた。
本丸には自衛隊の駐屯地があり、城内で見学可能なのは南側のごく一部である。明治維新以降、陸軍などが城内に駐屯した例は多数あるが、いまなお自衛隊が駐屯している近世城郭はこの新発田城のみではなかろうか。
現存している建物は本丸の表門と本丸鉄砲櫓跡に移築されている二の丸隅櫓のみであるが、三階櫓と辰巳櫓が復元されている。特に三階櫓は最上階に三つの鯱が上がっているのが特徴である。表門に繋がる道は土橋になっているが、もともとは木橋であった。
表門(現存 櫓門)
二の丸隅櫓(移築 櫓)
三階櫓(復元 櫓)
辰巳櫓(復元 櫓)
新発田公園などに無料の駐車場がある。
新発田城は無料公開されているが、開門時間があり、冬期閉園もあるので訪れる際は注意が必要。
公開期間 4/1〜11/30(冬期閉鎖) 公開時間 9:00〜17:00、但し11月は16:30まで最寄り駅(直線距離)