築城年代は定かではないが加地氏によって築かれた。 加地氏は近江宇多源氏の佐々木盛綱の末裔で、蒲原郡加地荘から加地氏を名乗った。
御館の乱で加地氏は景虎方となったが、景勝方の五十公野氏の奇襲にあい落城した。 天正9年(1581年)新発田重家が上杉景勝に対して挙兵すると、加地氏は新発田氏に同調して景勝に対したが、天正15年(1587年)景勝に攻められ落城した。
加地城は標高165.7mの要害山に築かれている。現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂にあり一段高い土壇があって広く展望台となる。虎口が西にあり通路は一度折れて下の曲輪へと繋がる。主郭部はこの主郭を中心に南北、北東の尾根に曲輪を展開しており、北東尾根と南東尾根には堀切が数条残る。
主郭部の北西尾根から西へ伸びた尾根の部分に二郭がある。この曲輪は主郭部と大空堀で遮断し長い土橋によって繋がっている。堀切に面した部分が広く、西へ向かって段曲輪があり神社へ続く尾根に二重堀切がある。また、北山腹には不明瞭ながら連続竪堀がある。
近くの蔵光館は加地氏関係の居館と考えられ、加地氏の菩提寺で香伝寺境内となっている。
東宮内にある藤戸神社の境内から登山道が山頂まで続いている。参道入口に若干スペースがあり車を駐める事ができる。
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