築城年代は定かではないが五十公野氏によって築かれた。
五十公野氏は新発田氏の一族である。御館の乱の恩賞に不満を抱き、上杉景勝に対抗した新発田重家は一時五十公野氏を継いでいたが、兄新発田長敦の死によって新発田氏を継ぎ、五十公野家は信宗(道如斎)が継いでいた。天正15年(1587年)上杉景勝に攻められ落城、城主五十公野信宗は自刃した。
五十公野城は五十公野小学校の東背後に聳える丘陵に築かれていた。東から西へ伸びた比高30m程の低丘陵で、その西端を主郭とし、背後に二重堀切などを設けて遮断している。
五十公野氏の居館は五十公野小学校の辺りと伝えられてきたが、最近になって発掘調査が行われ遺構が確認されたようである。
東中学校の東側に新発田東デイサービスセンターがある。この先に登山道があり、駐車も可能。
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