築城年代は定かではない。
天正9年(1581年)新発田城主新発田因幡守重家が織田信長と結び、上杉景勝に叛いた新発田重家の乱で、新発田氏の家臣山田源八郎が旧城を修築して拠点としたという。
天正11年(1583年)には西麓の法正橋(放生橋)で合戦があり、新発田重家があわや上杉景勝を討ち取ろうかという大勝利を得ている。(放生橋の戦い)
浦城は松浦小学校の東方に聳える標高100mの城山に築かれている。 ちょうどゴルフ場の新発田城カントリー倶楽部の大きな看板が掲げられている山が城山である。
浦城は山頂を中心に西北西、北北東、北北西に伸びる曲輪を展開する。 主郭部は山頂にありやや広い削平地を中心に比高1m未満で帯曲輪が周囲に展開する。
西北西に伸びる尾根が現在林道が付いている尾根で、林道から見上げると小さな段と堀切が連続して続いているのがわかる。主郭部付近はやや大きな堀切で遮断している。
主郭部から北へ降りていくと、帯曲輪はやがて幅の狭い段となり雛壇状になっていく。その下方に二条の堀切があり、下の堀切からは横堀となって南東側へと続いていく。 北尾根の途中から北西側へと続く尾根は、数条の連続した細かい堀切で遮断し、その先に小さな削平地が続く。この尾根と西北西に伸びた尾根との間に広がる谷間が元々大手道であったのか、つづら折りの道があり、虎口が付いている。その下方北西の山腹にはこちらも横堀があり、大手道の脇まで伸びている。
松浦小学校の東方に見える山が城山。登り口はわかりづらいが山の東麓に道が付いており、そこから入ると墓地がある。この墓地からさらに山上まで林道が付いている。途中までは車でも登れるような道であるが、墓地に車を置いて登るのが良いだろう。
最寄り駅(直線距離)