正保元年(1644年)溝口宜知によって築かれた。
寛永5年(1628年)新発田藩主溝口宜勝の四男宜知が蒲原郡内四千五百石を分知されて旗本となり、はじめ水原に陣屋を構えたが、正保元年(1644年)にこの地に陣屋を移し二ツ堂溝口氏と呼ばれた。
二ツ堂溝口氏は万治2年(1659年)宜知が嗣子なく没して一代で断絶している。
二ツ堂陣屋は現在畑となっているが、周囲よりやや高くなった地形が残っており、わずかに城跡らしさを感じられるが、周囲の田畑もそれなりに段加工されているので、これが本当に陣屋の遺構なのかわからない。『近世新潟の城と陣屋』によればここにもかつて標柱が建っていたようであるが、いまはない。