築城年代は定かではないが織田信光(津田豊後守信光)によって築かれたと云われる。 織田信光は織田信長の父信秀の弟で、信長の叔父にあたる人物である。
天文24年(1555年)信光は清洲城主織田信友の重臣坂井大膳の誘いに乗じて清洲城へ入城し、信友を謀殺して清洲城を奪い坂井大膳を追放した。清洲城は信長に譲り、自身は那古屋城へ移った。しかし、半年後信光も坂井孫八郎によって暗殺されたと云われる。
信光没後は玄蕃允、與三郎(永禄3年桶狭間合戦討死)、小藤次(天正10年本能寺の変で討死)と続き廃城となった。
稲葉地城は現在の神明社の辺りに築かれていたという。神明社の鳥居脇に石碑が建つのみで遺構はない。
神明社の南西にある凌雲寺は城の南西に建立された寺院で、永正年間(1504年〜1521年)に信光によって建立されたもので、織田信長が幼少時に手習いをしたと伝えられる。
ここに信光の墓があり、「前豊州太守泰翁凌玄凌禅定門天文五年丙申十月廿八日」と刻まれている。信光の没年は天文24年(1555年)とされるのだが、この天文5年は何だろう。