文明11年(1479年)織田敏広によって築かれたと云われる。 織田敏広は尾張守護代で下津城を守護所としていたが、応仁の乱の後、幕府より尾張守護代に任ぜられた織田敏定との争いで下津城は荒廃し、和平の後に築いたのが岩倉城である。後に尾張上四郡の守護代となった尾張伊勢守家の居城で、争った敏定の後裔は清洲城を居城として下四郡の守護代となっている。
弘治3年(1557年)織田信長と弟末森城主の織田信行が敵対し稲生で戦ったとき、織田伊勢守信安は信行に味方している。信安はその後、長子信賢を廃嫡し、次子信家を嫡子にしようと画策したが、信賢に追放されてしまった。 永禄元年(1558年)信賢は織田信長と犬山城主織田信清の連合軍と浮野で戦って敗れ、翌永禄2年(1559年)岩倉城は落城し信賢は追放された。
岩倉城は五条川に面した地に築かれていた。主郭部は字城趾で、県道25号線沿いに小公園があり、ここに岩倉城跡、織田伊勢守城址の石碑と案内板が設置されている。
昭和62年からの発掘調査によって堀跡を検出しており、南北に長い長方形の本丸の周りを空堀、二ノ丸、内堀、外堀が巡っていたと推測されている。南側と五条川を挟んだ北東側に家臣の屋敷地があったという。