永禄6年(1563年)織田信長によって築かれた。 織田信長は美濃斎藤氏攻めの拠点として小牧山城を築き、清洲城から居城を移した。
永禄10年(1567年)信長は美濃国稲葉山城を居城とした斎藤氏を降し、稲葉山城へと居城を移し廃城となった。
天正12年(1584年)廃城となっていた小牧城は再び歴史の表舞台に立つ。この年、羽柴秀吉と織田信雄が険悪となり、信雄に味方した徳川家康との間で繰り広げられた小牧・長久手合戦で、織田信雄・徳川家康の本陣として小牧山城は改修された。家康は周囲に土塁を巡らし、曲輪を造成して現在残る城郭へと改修した。
各地で小競り合いが行われるが戦局は動かず、しびれを切らせた秀吉は家康の陣を迂回して本拠がある三河へ軍を送るべく、羽柴秀次を総大将として軍勢を差し向けた。しかし、これを検知した家康によって秀次の軍勢は壊滅状態となり、先陣の池田隊も池田恒興・元助なども討死した。
戦局は信雄・家康方が優勢で進んで行ったが、秀吉は蒲生氏郷に信雄の本拠である伊賀・伊勢方面を攻めさせ大半を占拠させると、信雄と秀吉は講和を結んでしまう。信雄を支援する形の家康も秀吉と戦う理由がなくなり、小牧長久手合戦は終了した。
小牧山城は濃尾平野に浮かぶ標高85.9mの独立丘陵に築かれている。 山頂の主郭部には模擬天守の小牧市歴史館が建ち、遊歩道が整備されている。
東端最高所が主郭部で周囲に石垣が残る。西尾根に向かって曲輪は続き、土塁の付いた曲輪が北西、南東側へと続いている。南の市役所側が大手、北が搦手口となっている。
小牧山城の遺構は山上部分だけでなく、麓部分が良好に残っているのが特徴で、ほぼ一周するように土塁が巡っている。北の搦手側には土塁断面が展示されている。
小牧市歴史館(模擬 天守)
冠木門(模擬 城門)
南麓の堀の内体育施設の所に駐車場がある。ここから山頂へ遊歩道が付いている。また、麓をほぼ一周する遊歩道もあり、これを使うと麓の土塁沿いに一周することができる。
最寄り駅(直線距離)