築城年代は定かではないが鎌倉時代に堀尾氏によって築かれたと云われる。 堀尾氏は高階氏の後裔と云われ、鎌倉時代に尾張へ下向し代々居住したという。
この堀尾氏から出たのが江戸時代はじめに出雲国松江城主となった堀尾吉晴である。吉晴は早くより秀吉に仕え、天正元年(1573年)秀吉が近江に所領を得ると百五十石を領した。その後も秀吉に従って若狭国高浜一万七千石、近江国佐和山四万石、遠江国浜松城十二万石と出世している。秀吉没後の慶長4年(1599年)隠居して忠氏に家督を譲り、隠居領として越前国府中に五万石を領した。
関ヶ原合戦の後、堀尾忠氏は出雲国富田二十四万石の大名となったが、慶長9年(1604年)忠氏は没し、孫の堀尾忠晴が家督を継いだが幼年であったため後見人となり、慶長12年(1607年)松江城を築いて居城を移している。しかし、慶長16年(1611年)吉晴は没し、 寛永10年(1633年)には忠晴も嫡子なく没して改易となっている。
堀尾屋敷は現在の八劔神社付近に築かれていたと云われる。神社の南東隅に堀尾吉晴邸の小公園が設けられ、天正18年(1590年)小田原合戦に出陣して没した堀尾金助(堀尾吉晴の子)とその母の像が建っている。
神社の北側にある堀尾跡公園は、熱田の裁断橋が復元されている。