築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)頃には安井氏が居城としていたという。
羽柴秀吉に仕えた蜂須賀小六正勝は、蜂須賀城主蜂須賀正利と宮後城主安井弥兵衛尉重幸の女との間に誕生しており、天文22年(1553年)正利の死によって母の在所である宮後城に住むことになったという。蜂須賀正勝の嫡男で、江戸時代に阿波国徳島藩主となった蜂須賀家政は、この宮後城にて誕生している。
また、秀吉の五奉行の一人で安芸国広島藩の祖となった浅野長政は、安井弥兵衛の長子で浅野長勝の養子となっている。
宮後城は天正12年(1584年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として修築されたが、和睦後に破却された。
宮後城は県道64号線沿いにある江南自動車学校と古知野東小学校の中間付近にあり、県道が城跡を南北に分断する形で通っている。
県道の北側に蜂須賀家政誕生之碑があり、南側にある空き地に宮後城の碑が建っている。また南側の路地沿いに案内板が設置されている。遺構は土塁の残欠がわずかに残っているという。
南の名鉄犬山線近くにある宮後八幡宮は、安井氏が宮後城の鎮護の神として勧請したものと伝えられ、寛永元年(1624年)蜂須賀家政によって再建されたもので、県指定文化財となっている。