至徳2年(1385年)細川頼之によって築かれたのが始まりで、渭津城(いのづ)と呼ばれていた。
天正13年(1585年)と羽柴秀吉による四国征伐によって阿波の大半は蜂須賀家政に与えられ、一万石は置塩領として住吉城の赤松則房、千石余は兵橘領として土井城の毛利兵橘に与えられた。蜂須賀家政は当初は一宮城を居城としたが、のちに徳島城を築いて移った。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では蜂須賀家政は病気と称し、所領は豊臣家に返上という形で参加しなかった。一方家政の嫡男至鎮は徳川家康に従って会津討伐に向かっており、そのまま東軍として戦功を挙げた。このため至鎮に改めて阿波一国が与えられ徳島藩主となった。
慶長20年(1615年)に淡路を加増され併せて二十五万七千石となり、以降代々続いて明治に至る。
徳島城は吉野川河口にある独立した猪山を使った平山城で現在は徳島城跡公園として整備されている。
本丸があるのは山頂部分で山頂から東西に伸びた尾根に曲輪群を配している。本丸が一番広く東、西、北の三方に虎口を開く。南東下には東二の丸があり、ここに天守が聳えていた。多くの城が本丸、または天守丸などに天守があるなか二の丸に天守があるのが徳島城の特徴である。ただ、最初の天守は本丸の西端にある弓櫓(午砲)の所にあったとも推測されている。本丸から西へ降ると西二の丸、そして水道施設となった西三の丸と続く。
麓は南に鷲ノ門が復元され、そこから下乗橋を渡って枡形を入る。西には太鼓櫓、東には月見櫓跡がある。内部は表御殿庭園が整備されており、市立徳島城博物館には徳島城の復元模型が展示されている。この敷地の南西側に細い水路があるがこれが寺島川で、かつてはこれに面して石垣があり屏風折れとなっていた。この水路に面した低く残る石垣の部分に「舌石」と呼ばれる出っ張った石が所々残っているが、これが屏風折れの塀の突出部分を支えていた。
城山の西麓には西の丸があり、この辺りにも石垣が良く残っている。
鷲の門(復元 城門)
薬医門様式徳島城の東側と西側にそれぞれ有料駐車場がある。東側よりは西の体育館側の方が駐車可能台数が多いようである。
最寄り駅(直線距離)