天正8年(1580年)山田陸大夫によって築かれたと云われるが定かではない。 山田氏は佐々木六角氏の家臣で近江国山田に住んでいたが、六角氏が織田信長に敗れた後に三好氏を頼りこの地に城を築いて住んだと云われる。しかし、天正10年(1582年)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ勝瑞城も落城すると住吉城も運命をともにしたという。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐の後、播磨国置塩城主赤松二郎則房はその功によって板野郡内二十三ヶ村で一万石の所領が与えられ、住吉城に居城を移した。関ヶ原合戦で赤松氏は西軍に属して滅亡し、赤松氏の置塩領は徳島藩主蜂須賀家の所領となった。 赤松則房は慶長3年(1598年)に没し、家督を継いだ赤松則英が西軍に属して敗れて自刃、名門赤松氏は滅亡したといわれるが、則房と則英は同一人物ともいわれ詳らかではない。
住吉城は「城神さん」と呼ばれる小祠のある辺りが城跡といわれる。現在は宅地や田畑で遺構はなく、八坂神社の所に案内板が設置され、その南東の畑の中に「城神さん」と呼ばれる小祠が残っているのみである。
藍住町住吉にある住吉神社を目指す。神社の参道入口の西側の道路を北西に進むと八坂神社があり、ここに案内板が設置されている。「城神さん」はここから西へ道なり50m程進むと、南側の畑の中にあるのですぐにわかる。
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