文明元年(1469年)赤松政則によって築かれた。 赤松氏は嘉吉の乱によって一時没落していたが、南朝方から神璽を取り戻した功によって、政則の家督相続が認められ加賀半国の守護として復興した。
その後政則は、応仁の乱で細川勝元の命で播磨へ攻め込み、旧領の回復に努め、代々の居城であった白旗城から置塩城へ居城を移した。
天正5年(1577年)赤松則房は羽柴秀吉の播磨平定に従って、天正13年(1585年)の四国征伐に功があり、阿波国住吉に一万石の所領を得て阿波国住吉城に移り置塩城は廃城となった。
城は標高380mの山頂から西側に築かれている。
本丸は山頂部分で西側と南側に小郭を配しているが、土塁などの防御施設はない。ここには現在も瓦が散乱しており、瓦葺きの建物があったことは容易に想像できる。
本丸から西側へ降った所が二の丸及び二の丸北曲輪群である。 二の丸と二の丸北曲輪群は空堀状の通路を隔てて南北に位置している。 二の丸はおそらく城内で一番広い削平地で、中央部分に東西伸びた土塁があり、中央が虎口となっている。 二の丸北曲輪群は、二の丸の北にあり、東側の本丸方向に数段の曲輪が連なっている。その一角には石垣で固められた虎口があり、おそらく現在石垣を伴う虎口はここにしか残っていない。
二の丸の北西にあるのが三の丸で、三の丸は南東部が虎口で、内部に少し入った所に左右両側に土塁があり、東側の土塁には数回の折れが確認できる。
二の丸の南側には茶室跡と書かれた曲輪があり、南側に向かって数段の曲輪(南曲輪群)が連なり、所々に石垣が残っている。 現在の登山道はこの南曲輪群へ登ってくるルートである。
三の丸の東側の通路を北へ進むと、土塁を越えて北曲輪群がある。ここもかなり広く削平された曲輪である。
北曲輪群から西、または二の丸から大手門方面に進むと、途中大石垣のある曲輪を経て西曲輪群へと至る。ここは大手道であり、現在の通路の東側から北側にかけて無数の小郭から連なっている。
ここから降りて行くと大手門跡となるが、このあたりはあまり整備されておらず、この先に降りて行く道はないと思っても良い。 一応降りてみたのだが途中所々道らしきものがあるが、薮中に消えていたりする。
規模も大きく縄張も明確で非常に良く整備された城址である。 廃城後に用材を転用された為か、石垣は所々に点在するのみだが、往時は石垣を多く用いた城であったと思われる。 本丸は山頂部分だが詰丸といった雰囲気で、二の丸あたりが重要な位置づけではなかろうか
県道67号線と県道80号線の交差点、宮置小学校北側を東に曲り、橋を渡った直後(夢前川の東の道)を北側へ曲る。まっすぐ進めば登山口があり、その前に駐車場がある。道標も出ているのでわかりやすい。
最寄り駅(直線距離)