暦応元年・延元3年(1338年)小笠原宮内大輔長宗によって築かれたと云われる。 小笠原長宗(一宮長宗)は阿波国守護職小笠原長房の子長久の四男で、一宮国造の一宮宗成を滅ぼして一宮城を築き、一宮氏を称した。
南北朝時代に一宮氏は南朝方として活躍したが、貞治元年・正平17年(1362年)一宮長宗は北朝方に下り隠棲した。その後、阿波国守護職となった細川氏の被官となり、細川氏に代わって三好氏が実権を握ると三好氏に従った。
一宮成助は三好長慶の妹を妻に迎えて、三好義賢の重臣であった。三好義賢が没して三好長治が家督を継ぐと、天正5年(1577年)細川真之と三好長治が争うこととなる。成助は伊沢城主伊沢頼俊とともに細川真之に応じて挙兵し、三好長治を今切城に攻め長治を自刃させた。讃岐国虎丸城に居た長治方の武将矢崎駿河守はこの知らせを受けて伊沢頼俊を討ちとった。その後、成助は長宗我部元親と通じて勝瑞城を巡って十河存保と争った。
天正10年(1582年)中富川の戦いで長宗我部氏が十河氏を敗って阿波を平定すると、成助は三好康長に通じたとの理由で夷山城にて謀殺された。
その後、元親は北城に谷忠澄、南城に江村親俊を置いて一宮城を守らせたが、天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で豊臣秀長率いる四万余りの軍勢によって攻められ開城した。
天正13年(1585年)阿波に入部した蜂須賀家政は当初一宮城を居城としたが、徳島城を築いて居城としたため、益田宮内を城番として阿波九城と呼ばれる重要な支城の一つとした。寛永15年(1638年)一国一城令により廃城となった。
一宮城は大日寺の南方に聳える標高144m程の山に築かれている。現在は遊歩道や案内板などが良く整備されている。
一宮城は石垣作りの本丸が良く残り、東側に開いた虎口の石段は有名である。この本丸のある尾根の東端に明神丸があり、ここも虎口は石段が付く。さらにこれらを結ぶ帯曲輪の虎口にも石段が付いている。明神丸から東に堀切を挟んで位置するのが財(才)蔵丸で、この北方の尾根先に米倉跡が残る。
本丸の西下に釜床跡があり、そこから降りていくと堀切で区画された南尾根の曲輪群がある。鉄塔からさらに西の尾根に進むと小倉丸があり、西側に高い土塁を設け、北西部分に櫓台が付く。この小倉丸の周囲の通路は横堀状になっている。小倉丸から尾根伝いに北へ進むと水の手丸がある。
本丸と水の手丸との間にある谷間には湧き水があり、そこから湧き出た水が貯水池に溜められていたのだろう。この下に陰滝があり、水量は少ないが現在でも水が落ちている。
四国霊場第十三番札所大日寺を目指せば良い。大日寺の向かいに一宮神社があり、その隣に登山道入口がある。登山道からは米倉跡、財蔵丸、明神丸、本丸、小倉丸、水の手丸、貯水池跡、陰滝と経由して下山すれば主要部分を見て回ることができる。
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