築城年代は定かではない。
初期の城主は寒川氏で太田郡、寒川郡、小豆島を領し東讃に勢力を張った豪族である。寒川氏については昼寝城を参照。
元亀3年(1572年)寒川元政の時代に阿波国の三好長治によって虎丸城は奪われ、寒川氏は昼寝城へ退き、虎丸城へは三好氏の家臣雨滝城主安富氏が入る。
天正10年(1582年)中富川合戦で長宗我部氏に敗れた十河存保は虎丸城へ逃れる。天正11年(1583年)長宗我部元親は三好方の拠点となっていた十河城と虎丸城を攻略するべく、香川氏らとともに讃岐に侵攻、雨滝城、石田城、富田城と次々と攻略して十河城と虎丸城の連携を断ち、天正12年(1584年)には十河城ともに虎丸城も落城したという。
城は標高417mの虎丸山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり、東端に一段小高くなった櫓台、北下に一段腰曲輪がつく。虎口としては新宮池・別所からのルートが櫓台の北下にあって道がはっきりしているので一つの候補となる。
主郭から西尾根に伸びた西尾根遺構は主郭下に大きな堀切1があり、その先にも堀切2に二箇所、堀切3まで続くが、尾根上はほぼ自然地形で東西両側は急峻な地形が続く。堀切3に下る道が桝型状になっており、虎口の可能性が高い。
主郭から南へ伸びた南尾根遺構は、主郭下に堀切4があり、その先はやや幅広の尾根が続き、東と西に竪堀状に落ちる堀切5がある。東に落ちる竪堀は切岸下まで食い込むが尾根を遮断するまでには至っていない。
主郭から北東に伸びた尾根にも現地に掲載されている図面では遺構を描くが、ほぼ自然地形である。
主郭から北へ伸びた北尾根遺構は、現在もっとも利用されていると思われる風呂登山道がある。北尾根の先端にある三角点のある所が小さな出丸となっており、西から南にかけて土塁が付き、北西と南に小さな堀切8、7がある。ここから南の主郭下に達すると尾根を挟んで東西両側に畝状竪堀群6があり、西側に二条、東側にも数条竪堀地形があるようだが、土砂が崩落している。
北麓の風呂集落からの道がわかりやすい。弘海寺跡が駐車場となっておりトイレも完備されている。
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