築城年代定かではない。 永正年間(1504年〜1521年)頃に昼寝城主寒川元政の家臣四宮右近が城主であった。
元亀3年(1572年)寒川氏は阿波国の三好長治によって大内郡を奪われ、長治の家臣矢野駿河守が引田城主となった。
天正10年(1582年)中富川合戦で長宗我部氏に敗れ、虎丸城に籠城した十河存保を救援するため、秀吉は仙石権兵衛秀久を引田城に派遣して守らせた。
羽柴秀吉の四国征伐によって讃岐国は仙石秀久に与えられ引田城主となったが、九州征伐での戸次川合戦での失態により秀久は改易、替わった尾藤知宣も九州征伐の失態によって改易となっている。
生駒親正が讃岐国を与えられると引田城に入ったが讃岐国の東に偏りすぎていたため、聖通寺城に移り廃城となった。
引田城は引田港の北に聳える標高86mの城山一帯に築かれている。
引田城は南の郭、西の郭、東の郭、北の郭、丹後丸などからなり、至る所に石垣や櫓台の跡が残っている。特に残存の良い石垣は北の郭に残されている。主郭はわからないが、南の郭の中央に天主台とされる社が祀られた段がある。
登り口は田の浦キャンプ場や引田港の北側にあり、入口に案内板がある。
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