築城年代は定かではないが南北朝時代に新田義宗によって築かれたと云われる。 新田義宗は新田義貞の嫡男である。
正平23年・応安元年(1368年)足利義詮、基氏があいついで没したことを期に新田義宗は脇屋義治とともに越後で挙兵したが、上野国沼田で上杉氏に敗れた。一般的にこのとき新田義宗は討死し、脇屋義治は出羽へ逃れたとされる。しかし、異説として義宗は義治とともに出羽へ逃れた後、伊予・讃岐と渡ってこの日開谷城に籠り、秋月城を本拠とした北朝方の細川氏と戦ったという。
日開谷城は標高632.4mの城王山山頂に築かれていた。
日本城郭大系に掲載されている図面によれば、山頂にある新田神社(城王神社)のある所が本丸、南東の登城王大神の祀られた峰に隼人丸、北西の尾根に物見の城があり、物見の城の南北両側に空堀を描く。
本丸とされる山頂一帯は広くなだらかな地形が広がっており、北側にある新田池には竜神が祀られ、山頂にありながら常に水が蓄えられている。しかし、特に城郭遺構らしきものは見あたらず、南東の隼人丸一帯は全くの自然地形、北西の物見の城も不明瞭で、堀切に至っては林道が通っていて堀切があったのかどうかもわからなくなっている。
かなり高い山だが、南の麓から舗装された林道が通っており、その終点は標高560m付近にある。林道は狭いが終点まで舗装されている。林道入口