『阿波志』では城主を川人越前守とする。また『阿波郡誌』では川人備前守が城主で、天正10年(1582年)に長宗我部軍によって焼かれ、川人備前守と板東伊賀守の墓碑が残るとされる。
板東伊賀守神社にある碑文によれば、板東伊賀守は天正12年ここ上喜来の地に没したとある。
川人城の位置ははっきりしないが、『徳島県の中世城館』では板東伊賀守神社の辺りと推測されている。
板東伊賀守神社が板東伊賀守の墓碑であろうか、境内脇の碑文に「小笠原姓板東伊賀守天正12年ここ上喜来の地に没す」とある。
板東伊賀守神社の向に川人城の石碑が建てられており、ここに川人氏の碑文がある。これが川人備前守の墓碑であろう。