築城年代は定かではないが伊沢四郎太夫家景によって築かれたと云われる。 伊沢氏は源頼朝に従軍して数々の功を挙げ、特に文治5年(1189年)奥州平泉の藤原泰衡討伐で抜群の功があり、源頼朝より伊那佐和庄一千町歩を賜り、伊沢と改め城を築いた。
天正4年(1576年)三好長治と細川真之が対立し、真之が勝瑞城を脱出すると伊沢越前守頼俊は一宮長門守成佑とともに馳せ参じ、三好長治と荒田野で戦って敗り長治を自刃に追いやった。讃岐国引田城主矢野駿河守や三好越後守勝時、庄野久右衛門ら長治の家臣が勝瑞城に集結すると、伊沢頼俊は坂西城に入城し対峙した。しかし矢野駿河守の謀略により坂西城は奇襲を受けて落城、頼俊は自害して果てた。
伊沢城は伊澤神社の西にある蛭田池の西側に築かれていた。 蛭田池は城の東側の水堀の名残で、西側にも「鎌倉堀」と呼ばれる堀跡が残っている。
現在は石碑が蛭田池の土手の所にあり、ここから西の霊神宮に向かう途中に谷間になった部分が鎌倉堀でここに「伊沢城・鎌倉泉」の案内板が建っている。城内は宅地や畑となっており遺構は良くわからない。
阿波市役所の東側の道路を南下すると伊澤神社がある。この西の池が蛭田池。
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