宝徳3年(1451年)細川常有によって築かれたと云われる。 細川常有は細川頼有を祖とする和泉上守護家で宝徳2年(1450年)和泉半国守護に補任されている。
細川常有の後は政有・元有・元常と続いた。元常の時代の永正年間(1504年〜1521年)に代官谷馬之助が細川氏に叛いたため、讃岐国神崎城主土肥因幡守綱真に命じて谷氏を討たせた。丹治右京亮常直と土肥綱真を代官に任じて泉館に置いた。
永禄元年(1558年)勝瑞城の細川真之が三好長治によって追われると、土肥紀伊守庸吉は丹治庸直を殺して三好氏に従ったが、天正7年(1579年)脇城外で長宗我部方と戦い討死した。天正10年(1582年)長宗我部氏に攻められ落城した。
井上城は川田川の西岸にあり、南の山塊から北へ拡がる山裾の中腹に築かれていた。 現在は辺り一面水田となり案内板が設置されているが、明確な遺構はないようである。南にある明王院は土肥氏の菩提寺だという。
明王院への道標は付近に出ている。城跡は明王院から北約200m程の所にあり、井上集会所と中筋集会所の中間付近に位置する。
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