築城年代は定かではない。 戦国時代の初期に脇権守仲房の館があったといわれ、天文2年(1533年)に三好長慶が城を築いて三河守兼則が守っていたともいわれる。
弘治2年(1557年)大和国より武田上野介信顕が脇城に入り三好氏に仕えた。この上野介信顕は武田信虎の子で武田信玄の異母弟とされる人物である。 天正7年(1579年)信顕は岩倉城主三好康俊とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利した。天正10年(1582年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城へ押し寄せ、信顕・信定父子は讃岐へ逃れたが逃亡先で討たれた。
その後、長宗我部親吉が脇城に入った。親吉は元親の甥または叔父といわれる人物で一族の中では最も剛の者であったという。天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国征伐では三万の兵が押し寄せ、親吉は五千の兵でこれを迎え撃ったが、支えきれず開城した。
蜂須賀家政が阿波に入国すると家老稲田稙元が一万石を領して脇城主となり、脇城を改修して阿波九城の一つとなった。
脇城は古い街並みの残る脇町の北にある城山に築かれている。 城山は比較的平坦な台地で南西に伸びた先端部に主郭を置き、空堀で区画した曲輪が東へ二郭・三郭と続いている。
現在は西端の主郭部は荒れ地ながら良好に残っているものの、二郭・三郭の部分は大きく改変されている。
山上まで道がある。南麓にある秋葉神社からの車道は狭く、麓の公園に駐車場がなくやむなく車で山上まで登ったもののできれば避けたい道である。北側の高速道路方面からの道のほうが良さそうである。
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