築城年代は定かではない。文永4年(1267年)三好郡領平右馬頭盛隆が叛乱したとき、阿波国守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定したという。
永禄年間(1558年〜1570年)には三好康長が岩倉城を築いて嫡子三好徳太郎康俊が城主となった。天正7年(1578年)康俊は脇城主武田信顕とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利した。天正10年(1582年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城も攻略して岩倉城にも攻め寄せ、康俊は降伏開城して逃れたとも討死したとも云われる。
岩倉城は南へ張り出した尾根の先端が小高くなった山頂に築かれている。 城山は後世の改変を受けているようだが、現状では本丸の北側に堀切が一条あり、その北側は墓地になっている。本丸の南側に案内板と城主の墓がある。
県道12号線から脇町自動車学校の辺りで川の東側の道を北へ入り、脇町田上にある真楽寺を目指す。途中には道標が出ているのでそれに従って行くとたどり着く。
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