築城年代は定かではない。城主は麻植因幡守持光と伝えられる。
天文21年(1552年)岩倉城主三好康俊の家臣藤原平右衛門友清によって内山城が攻められ落城、持光は城を脱したが、丹生で討死して麻植氏は滅んだ。その後、この地は藤原平右衛門友清に与えられたという。
内山城は山の北側山腹、標高470m付近に築かれていたという。 現在道路沿いに「家賀城」の石碑があるのみで明瞭な遺構はない。
城石碑から少し東へ登って行くと下にお堂のようなものが見える。ここに内山城落城時に戦死者を祀った七人塚がある。また城内にあったという阿弥陀如来像が西福寺の上の無念堂、不動明王は西福寺に祀られている。