築城年代は定かではない。城主ははじめ浅野但馬守で後に久米刑馬という。
天正6年(1578年)長宗我部元親の家臣大西頼包が中鳥城主久米刑馬と謀って重清城主小笠原豊後守長政を謀殺して重清城を奪ったという。
中鳥城は現在吉野川の堤防の中に取り残されている。堤防の北に伊射奈美神社が祀られているが、これがかつて中鳥城にあった神社で集落ごと移転して今の場所に移された。
神社の裏に中鳥城主であった浅野但馬守の墓が移設されている。
中鳥城はかつて吉野川の南岸にあったが、江戸時代の吉野川の氾濫によって北側と地続きとなったので、重清城とは吉野川を挟んで対峙していた。吉野川の堤防工事によって消滅する予定であったが、そのまま残されており、現在でも川の水量が少ない時期であれば城跡へ行くことができるという。残念ながら大雨によって増水しており、城跡は川の中であった。