暦応2年・延元4年(1339年)小笠原長親によって築かれたと云われる。 長親は阿波国守護に任ぜられた小笠原長房の孫にあたる人物である。
天正6年(1577年)正月に城主小笠原豊後守長政は、白地城主大西覚養の弟で長宗我部氏に人質として送られていた大西上野介頼包と中鳥城主久米刑馬によって謀殺された。 大西頼包は讃岐へ逃れていた兄覚養を長宗我部氏に降らせ、重清城に迎えた。重清城を長宗我部方に落とされた三好氏は、十河存保が兵三千余りで押し寄せ城を取り戻したが、天正7年(1579年)長宗我部元親が大軍を率いて重清城に押し寄せ、十河存保は五千の兵をもってこれに対応したが敗れ、重清城は落城した。
重清城は吉野川北岸の段丘の上に築かれている。城の西は船屋谷、南は段丘により急峻な地形で、東から南を空堀で区画することによって城地を切り離している。
重清城には小笠原神社が鎮座しているが、かなり荒廃しており今にも崩れそうな神社である。城は南側が一部宅地などによって遺構を損なっているものの良好に残っている。
東側は土塁と二重の空堀から巡り、南東隅部に土橋の架かる虎口がある。二重の空堀はこのまま南を巡っていたと思われるが、現在は確認できない。土塁は虎口の北側に張り出しがあり横矢が掛かる。北東隅には石組み井戸がある。
重清西小学校の近くで、県道12号線から小学校の西側500m付近から山上に急な坂道を上がり、道なりに北へ向かえば城址に着く。
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