築城年代は定かではないが戦国時代末期に篠原長房によって築かれたと云われる。
篠原長房は三好義賢に仕え、永禄5年(1562年)和泉国久米田の戦いで先鋒を務めたが、大将三好義賢が討死して大敗した。義賢亡き後、長房は紫雲と号して剃髪したが、義賢の遺児長治を補佐して「新加制式」という法令を制定して領内を治めた。
しかし元亀3年(1572年)長房の弟という木津城主篠原自遁の讒言により、三好長治は讃岐国十河城主十河存保、切幡城主森飛騨守、伊沢城主伊沢右近らを大将とする七千の軍勢を動員して長房の籠もる上桜城を攻め、両軍合わせて三千余人の戦死者を出し、長房・大和守父子も討死して落城した。
上桜城は麓の川島城のちょうど南にある標高142.2mの山頂に築かれている。 上桜城はこの標高142.2mの部分とその南西の北へ伸びた尾根の部分から成り、前者が本丸あるいは古城、後者を西の丸あるいは新城と呼ばれている。
古城の部分は東西二段で南に腰曲輪が付いている。西上の曲輪は西端が土塁状に高くなり、ここに石碑が建てられている。西上の段から東下の段へは降りる道は中央が窪んだ道になっているが、これは公園化の影響だろうか。
新城の部分はちょうど上桜城の入口のある道路によって南端部分が削られ消滅している。「中世城郭辞典」に掲載されている縄張図で補うと、この消滅している部分には櫓台と堀切があったようである。この新城の先端から北西に降りていく道に土橋の架かる堀切が一条残っている。
川島城の前の国道192号線を東へ進み神後交差点を南へ曲がって県道43号線に入り、南下して川島高校を過ぎ山に上がって行くと道標があり、右の林道に入って少し行くと入口に案内板が設置されている。
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