築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に篠原肥前守自遁によって築かれたと云われる。 篠原自遁は三好氏の家臣で篠原長房の弟である。
天正5年(1577年)三好長治は荒田野で細川真之と戦って敗死すると、長治の実弟で讃岐国十河城主となっていた十河存保が勝瑞城に入ることとなった。自遁はこれを歓迎せず抵抗したが敗れ、勝瑞城入城の先導役を務めた。
天正10年(1582年)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ勝瑞城は落城、十河存保は讃岐国虎丸へ退いた。自遁はこの戦いには参加せず城に籠もっていたが、本能寺の変により織田信長が倒れると城を捨てて淡路へ逃れたという。 長宗我部元親は木津城に桑野城主東条関之兵衛を置いて守らせた。
天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国征伐では、羽柴秀長・秀次を大将とする大軍が押し寄せた。籠城方も奮戦して良く防いだが、水の手を切られ落城したという。
木津城は鳴門icの南側にある標高64.3mの小山に築かれている。 西側の谷が大きく削られ公園になっており、ここが「木津城山公園」なのだが、城跡を示す案内板はおろか、公園の名前さえ建設会社が建てた杭のような石碑に刻まれているだけである。
山頂には貯水タンクが設けられ、見る影もないと城郭大系に記載されているので、まったく期待せずに登ったのだが、東側から北側の山腹に横堀が巡らされ、東側から北東側の側面には少なくとも五条の畝状竪堀群が残っている。山頂は貯水タンクがあり、曲輪の形状はまったく不明だが、北西側に横堀から斜めに降りる道の跡と、その上に土塁状に削り残しのある小郭を確認することができる。
鳴門icから国道11号線に出て北へ曲がり、すぐの交差点を西へ入ると川沿いの道にでる。この川沿いから公園に入る道がある。
はじめ公園側から城山へ登ろうとしたがイバラの群生により断念した。城山への登り口は公園とは反対の東側の道路沿いにある。山裾を良く見ているとつづら折りの踏み跡があり、それを登ると横堀に達する。
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