築城年代は定かではないが矢野氏によって築かれたと云われる。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は矢野駿河守国村で、天正5年(1577年)三好長治と細川真之が対立して長治が自刃すると、当時讃岐国虎丸城主であった矢野国村は長治を攻めた伊沢頼俊を討ちとり、十河家を継いでいた長治の弟十河存保を勝瑞城に迎えた。
天正7年(1579年)三好康長の嫡男で岩倉城となっていた三好徳太郎康俊は長宗我部元親に降伏した。このとき、徳太郎は三好方の武将に土佐へ攻め入る為に軍勢を率いて参陣するように命じ、これに従った矢野国村をはじめ、森飛騨守、三好越後守などが急遽軍勢を整えて岩倉城へ向かった。しかし、これは謀略で脇城などから打って出た土佐方の軍勢に襲われ矢野国村は討死した。
矢野城は市立考古資料館の南側にある南東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれており、現在は城山神社が鎮座している。
規模の小さな城で、西尾根を堀切、そのまま南側へ横堀状に伸ばしている。主郭はちいさな段がある程度で、城山神社の境内に「史蹟 矢野城址」をはじめ「日本最初のクリスマス」、「室町幕府十四代将軍擁立」、「農兵活躍史」などの石碑が建っている。
市立考古資料館の駐車場に車を駐めることができる。その南側の道路に矢野城の標柱がある。この道を入って行くと城山神社に至る。
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