阿波 観音寺城あわ かんのんじじょう
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『阿波志』によれば城主は板東市正で、天正10年(1582年)長宗我部元親が諸将を誘殺したとき、市正は病と称して逃げ帰って難を逃れ、子孫は帰農したという。
『阿波志』に「舌洗池の東に在り」と記されているが、観音寺城の位置ははっきりしない。