築城年代は定かではない。伝承としては文治2年(1186年)佐々木経高によって築かれたのが始まりとされる。
阿波国・淡路国・土佐国の守護となった経高が阿波国の拠点として築いたが、 承久の乱の後は佐々木氏に代わって小笠原長清が阿波国守護となり、長清は佐々木氏の籠る鳥坂城を攻め佐々木氏を排除した。
しかし、現状の遺構は戦国期のものであり、三好氏と長宗我部氏との争いのなかで利用された山城と考えられている。
鳥坂城は気延山から北へ派生した標高75mの茶臼山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂の小さな曲輪で、北側の曲輪IIに続く部分に土塁で虎口を作り出しており、形状は不明瞭であるが外枡形状である。一方南側も曲輪IIIに続くスロープを作り出しており、こちらも虎口として利用された可能性がある。主郭の東下には採石場と思われるところがあるが、石を使っているのは東の畑跡部分と考えられる。
曲輪IIIは背後の尾根を遮断する堀切に面して土塁を備える一方、主郭を取り囲む帯曲輪群に通じる起点ともなっている。
主郭から北の山腹にかけて多段になった帯郭群が設けられている。基本的に土塁はなく高い切岸によって区画されている。帯曲輪間の移動は西側にある帯曲輪の南端部分が有力でスロープがある。
主郭背後の尾根は切岸直下からやや離れた所に大きな堀切があるが、その間にも小さな凹凸があり、西側に竪堀状に伸びる地形もあることから多重堀切であったと思われる。ここからさらに気延山方面に進んだ所に堀切1がある。
北側は曲輪VIIIの切岸下方に放射線状になった畝状竪堀群4が確認できる。ほとんど傾斜のない部分で竪堀の先端は畑の造成によって削られているようである。徳島県下で畝状竪堀群が確認されている城郭は少なく、ここと木津城のみである。
帯曲輪群の最下段IXは削平されているものの切岸がほとんど確認できないが東端には竪堀3がある。
東麓の道路に登山口があり入口に標柱がある。駐車場は国分尼寺跡が利用できる。
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