天正年間(1573年~1592年)の城主は近藤勘右衛門正次であった。
天正9年(1581年)一宮城から長宗我部の軍勢が轟城に攻め寄せたが、三好(十河)存保自ら援軍を率いて駆けつけ、これを撃退した。
轟城は下浦駅の北東側一帯に築かれていた。現在は石碑があるのみで、明確な遺構はないが、『徳島県の中世城館』によれば、近くには屋号「しろ」の民家があり、土塁の残欠とも考えられる土盛があるという。
現在下浦駅北側道路を道なりに北東に進んで行くと、隣接して石祠と五輪塔があり、ともに轟城の石碑が設置されている。