埴原加賀守常安(植安)の屋敷という。 埴原氏は信濃国埴原の出身と云われ、信濃あるいは甲斐を順礼した後、信長に見いだされ、永禄10年(1567年)信長より二十貫文の地を宛がわれた。
埴原加賀守は八条流馬術の名手で、岐阜城落城直後に「天下布武」の朱印状を信長より与えられている。本能寺の変の後は織田信雄に仕え、天正18年(1590年)信雄が改易となった後に住んだのがこの埴原屋敷で、慶長3年(1598年)この地で没した。 加賀守には子がなかったため、平手政秀の子を養子に迎え埴原寿安と名乗った。寿安は信勝改易後に秀吉に仕えている。
埴原屋敷は常観寺の東側付近に築かれていたようで、生駒屋敷絵図(生駒屋敷参照)にも埴原屋敷が描かれている。特に遺構はないが、龍神社に埴原塚がありこれが加賀守の墓である。もともとこの塚は龍神社前にあったようであるが、土地改良によって現在の所へ移されたものだという。