天正19年(1591年)に毛利輝元によって築かれた。 毛利氏の居城吉田郡山城は山間部にあり城下町を形成するには不都合であった為、輝元は太田川河口部のデルタ地帯に新たに築城することを決め、築城に際しては羽柴秀吉の築いた聚楽第を参考にしたと云われる。
太田川のデルタ地帯に築城するためまずは堤を築き土地を固める作業が必要であったため、天正19年(1591年)に輝元が入城できるまでに至ったが、完成したのは慶長4年(1599年)であった。
関ヶ原合戦で西軍の総大将として敗れた輝元は防長2ヶ国に減封され、長門国萩城へと移った。
替わって、福島正則が尾張国清洲より五十万石で入封とする。しかし、元和5年(1619年)洪水で破損した石垣の無断改修を問われて改易となり、改めて信濃国高井郡で2万石、越後国魚沼郡で二万五千石の計4万五千石が与えられ、高井野藩となり、正則は福島正則館に隠居した。
替わって浅野長晟が紀伊国和歌山より四十二万石で入封し、以後代々続いて明治に至る。
城は本丸に五重五階の天守に小天守2基を付随させたのをはじめ、櫓88基を備える大城郭であった。 戦前まで天守は残っていたが原子爆弾により倒壊した。
天守(復元 天守)
平櫓(復元 櫓)
太鼓櫓(復元 櫓)
表御門(復元 櫓門)
御門橋(復元 橋)
護国神社の駐車場があるが神社参拝客のみ利用可能。城の駐車場はないので周囲の有料駐車場を利用。
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