天正13年(1585年)羽柴秀吉の命を受け羽柴秀長が築城した。 秀長は当時大和国郡山を本城としていたため、和歌山城には重臣の桑山重晴を城番として置いた。
関ヶ原合戦後は浅野幸長が入城し大改修した。 元和5年(1629年)長晟の安芸国広島への移封にともない徳川頼宣が駿河国駿府城より入城し御三家として明治まで続く。
和歌山城は紀の川河口に築かれた平山城で、江戸時代に御三家の一つ紀州徳川家の居城であった。現在は国指定史跡となって公園整備されている。
小高い山を取り囲むように縄張りされた城で、山の上には西に天守曲輪、東に本丸が築かれている。その間から南へ降りる道を「表坂」、北に降りる道を「裏坂」と呼んでいるが、これは大手が岡口門にあった頃の名残であろうか。北麓には二の丸、西に西の丸と砂の丸、南には南の丸があり、これらを取り囲むように石垣や堀が巡っていた。さらに北や東に三の丸があり、和歌山川と市堀川が外堀となる。
天守は第二次世界大戦の和歌山大空襲によって焼失し、現在あるのは昭和33年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものである。天守は大天守、小天守、乾櫓、二之門櫓を多聞櫓が結ぶ連立式天守構造であった。
現存する建物は岡口門とその脇の土塀、追廻門、時鐘堂である。復元された建物は一の門、御橋廊下などがある。
岡口門(現存 櫓門)
追廻門(現存 城門)
時鐘櫓(現存 櫓)
本丸御殿台所(移築 御殿)
天守(復興 天守)
小天守(復興 天守)
楠門(二の門)(復興 櫓門)
埋門(復興 城門)
ニの門櫓(復興 櫓)
乾櫓(復興 櫓)
御橋廊下(復興 橋)
大手口門(復興 城門)
周辺に有料駐車場がたくさんある。城内南側の有料駐車場が一般者用である。
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