天正13年(1585年)徳川家康によって築かれた。 この地には今川氏の府中館があった所であるが、武田氏の侵攻により破壊された。 天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると徳川家康は駿府城を築き、遠江国浜松城から居城を移したが、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川氏は武蔵国江戸城へ転封となり、中村一氏が近江国水口岡山城から十四万五千石で入封する。
関ヶ原合戦後、一氏は伯耆国米子城へ転封となり、内藤信成が伊豆国韮山城から四万石で入封するが、家康が将軍職を秀忠に譲り隠居すると駿府城が隠居城となり、同年内藤信成は近江国長浜城へ転封となった。
元和2年(1616年)家康が没すると徳川頼宣が在城するが、頼宣は紀伊国和歌山城へ移封となった。寛永2年(1625年)徳川家光の弟忠長が入城したが、寛永8年(1631年)忠長は改易となり上野国に蟄居を命ぜられた。
その後は明治元年(1868年)徳川家達が七十万石で入封するまで城番が置かれていた。
駿府城は現在駿府城公園として整備されている。
駿府城は本丸を中心に二之丸、三之丸がその周りを取り囲むように築かれた輪郭式の縄張りであったが、明治以降陸軍が利用するときに本丸堀は埋められてしまったため、現在駿府城公園となっている部分は本丸と二之丸である。
本丸は北西隅に天守台と小天守があり、現在発掘調査によって慶長期と天正期、それぞれ大小天守台が検出され公開されている。また南西隅部分の堀と石垣も一部発掘公開されている。
二之丸は北に北御門、西に清水御門、南に二之丸御門、南東に東御門の四ヶ所虎口があった。このうち二之丸御門は取り壊されて石垣で埋められている。南西隅には坤櫓、南東隅には東御門と巽櫓が復元されている。
三之丸は二之丸のを取り囲むようになっており、東側と南西の一部を除いて堀と石垣が残っている。二之丸石垣に比べ三之丸石垣のほうが保存状態が良いのではないだろうか。三之丸は北に草深御門、東は横内御門、南は西に四足御門、東に大手御門があり、西には虎口はなかった。大手御門は現在でも大きく屈折した枡形が残されている。
公園用駐車場はないので周辺の有料駐車場を利用する。東御門、巽櫓、坤櫓は有料で公開時間がある。
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