築城年代は定かではない。日本坂を越えて駿府に至る要衝にあることから今川氏が入封した頃に築かれたものと推測されている。
永禄年間(1558年〜1570年)には関口刑部少輔親長、一宮出羽守宗是、一宮左衛門尉の名が見える。永禄11年(1568年)駿河国に侵攻した武田信玄によって攻められ落城した。
武田信玄は三浦兵部義鏡、向井伊賀守正重に守備させたが、天正7年(1579年)9月19日徳川家康の軍勢に攻められ三浦義鏡、向井正重など兵四百余人が討ち取られ落城した。翌天正8年(1580年)武田勝頼は持舟城を改修して朝比奈駿河守氏秀に守らせたが、天正10年2月23日再び徳川家康に攻められ開城、氏秀は久能山城に退いた。
持舟城は小坂川が駿河湾そぞく河口の南にある東へ突き出した用宗城山に築かれている。
山頂には北側に東西に長い曲輪があり城山観音が祀られていたようであるが現在は解体され公園として整備されて石碑が建っている。南側に堀切を設けその南に南北に長い曲輪があるが、ここは現在果樹園である。城山から西へ続く尾根には二条の堀切が設けられていたようであるが、ここは現在は果樹園の農道が通っており堀切は確認できない。
用宗駅の北側にある大雲寺を目指すとよいだろう。大雲寺へ至る道の途中右側に浅間神社がありその脇から舗装された農道が山に通じている。この農道は一般車通行禁止の為、歩いて登る。途中道が二手に分かれるが左側の道を進んでいくと持舟城登山口の道標がある。
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