築城年代は定かではない。 賤機山城は今川氏館の詰城と考えられており、応永18年(1411年)に今川範政が駿府に入府した頃に築かれたと考えられている。また、それ以前にも建武年間(1334年〜1338年)頃にに安倍城に籠もる南朝方の狩野氏に対して、駿河に入国した北朝方の今川範国が賤機山城を築いて南朝方に備えたとも推測されている。
永禄11年(1568年)武田信玄が駿河へ侵攻した。これに対して今川氏真は、北条氏に援軍を求めて薩埵峠で迎え撃とうとしたが、家臣の瀬名信輝や葛山氏元らが武田氏に内通しており、遠江国掛川城へと逃れた。武田氏は駿府へ入ると籠鼻(賤機山城と考えられている)に陣取り今川氏館に火を放って焼き尽くした。
その後は武田氏の管理下に置かれたと考えられ、天正10年(1582年)徳川家康が駿府に入ると廃城となった。
賤機山城は安部川東岸にあり、南北に長く伸びた賤機山の最高所に築かれている。
賤機山城は臨済寺の北西背後の山頂部分に主郭を置き、南北に連なる尾根上と、そこから東西に派生した尾根に曲輪を配している。
主郭部は南北二郭で、北側が主郭となる。主郭は西側に南北に土塁が伸び、外側に犬走の通路があり縦走路になっている。中央部分が櫓台状に一段高く、南北両側に削平地がある。北側は方形に囲むような土塁があり、ここに案内板と石碑が建っている。さらに北へ伸びた尾根には無線中継施設があるが、段々と削平地が連なる。
主郭の南西麓にある臨済寺は太原雪斎ゆかりの寺で、今川氏輝の菩提寺である。墓地には今川氏輝と太原雪斎の墓、そして中村一氏の墓もある。
二郭は主郭の南西の尾根の先端にあり、薮化しているが広い平坦面と土塁が確認できる。ここから尾根下に降った所に深い堀切が残る。
東西に伸びた尾根にも遺構があるようだが、主郭部が期待したほどの遺構でなかったことと、来る途中に両側が茶畑や果樹園になっていたこともあり、余り変な所を歩きたくなかったので未確認である。
登山口はいくつかあるようだが、南麓にある浅間神社から賤機山古墳を経由して縦走するルートが一番わかりやすい。当初、臨済寺あたりから登れないのかルートを探したが見つからず。
最寄り駅(直線距離)