築城年代は定かではない。
天文5年(1536年)に今川氏輝の病死に伴う家督相続争い(花倉の乱)では花倉遍照寺の僧恵探(今川氏親の子で義元の異母兄)を支持した福島彦太郎、斎藤四郎衛門、篠原刑部少輔らによって方上城は占拠され、その後富士善得寺の僧承芳(後の今川義元)を支持した岡部左京進親綱の軍勢により攻め落とされた。
方上城は高草山から南西に伸びた尾根の途中標高230mの山に築かれている。
山城というよりは砦と表現する方がしっくりくる程に曲輪は狭い。山頂部には経塚があるが、ここは削平すらしておらず山頂からやや降った南西の尾根に狼煙台と書かれた石を重ねた場所がある。日本城郭体系の縄張図ではこの部分は単に古墳と見なしている。
曲輪は山頂からやや北東に降った所に前後の尾根を堀切で区画した削平地があるのみ。北東の尾根は細く削りだしその途中に数条の堀切を設けている。
県道213号線沿いにある案内板では「のろし台」と「方上城」を分けて記載しているのだが、今回訪れたのはこの「のろし台」と呼ばれる地である。日本城郭体系および静岡県の中世城館跡はともにこの狼煙台を方上城としている。ただ近くの茶畑となった付近に地形に異常が見られる地点があることには触れているので方上城自体が別の場所にあるのかもしれないが、雨が降っていることもあってそれを探す気にはなれなかった。
県道213号線の山の手会館付近にあるバス停の所に付近の案内板がありここに狼煙台と方上城の場所が描かれている。このバス停から長福寺方向に入り山道をどんどん登り高草山山頂方向に進んでいくと正面に狼煙台入口の標柱が建っている。北尾根から登る道となる。入口地図
最寄り駅(直線距離)