駿河 田中城するが たなかじょう

城郭放浪記


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駿河 田中城の写真
掲載写真数
形態
平城
別 名
亀甲城,亀城,徳之一色城
文化財指定
市指定史跡
遺 構
土塁,郭,堀
城 主
山県昌景,徳川氏
歴 史

築城年代は定かではないが今川氏の家臣一色左衛門尉信茂の居城徳之一色城が田中城の前身である。一色氏が没落した後は同じく今川氏の家臣由井美作守が一万八千石を領して在城していた。由井氏が桶狭間合戦で討死した後は長谷川次郎右衛門尉正長が守備したが、元亀元年(1570年)武田信玄が花沢城を落とした後に徳之一色城も落城した。

元亀元年(1570年)武田信玄は徳之一色城のあたりに馬場美濃守信房に命じて田中城を築かせた。天正3年(1575年)長篠の合戦で織田・徳川軍は武田勝頼に勝利し、徳川氏は駿河に侵攻する。 天正10年(1582年)武田一門の江尻城主穴山梅雪が徳川氏に降ると、田中城は完全に孤立することとなり、城主依田信蕃は開城した。

関ヶ原合戦後は酒井忠利が一万石で入封、慶長14年(1609年)忠利は武蔵国川越へ移封となり、駿河藩に編入となる。

その後は下記の如く目まぐるしく城主が入れ替わる。

和暦(西暦) 事象
寛永10年(1633年) (桜井)松平忠重が上総国佐貫より二万五千石で入封。
寛永12年(1635年) (桜井)松平忠重は遠江国掛川へ転封。
水野忠善が下総国山川より四万五千石で入封。
寛永19年(1642年) 水野忠善は三河国吉田へ転封。
(藤井)松平忠晴が二万五千石で入封。
正保元年(1644年) (藤井)松平忠晴は遠江国掛川に転封。
北条氏重が下総国関宿より二万五千石で入封。
慶安元年(1648年) 北条氏重は遠江国掛川に転封。
慶安2年(1649年) 西尾忠昭が常陸国土浦よりが二万五千石で入封。
延宝7年(1679年) 西尾忠成は信濃国小諸に転封。
酒井忠能が信濃国小諸より四万石で入封。
天和元年(1681年) 酒井忠能は除封。
土屋政直が常陸国土浦より四万五千石が入封。
貞享元年(1684年) 土屋政直は大坂城代として転封。
太田資直が駿河・遠江国より五万石で入封。
宝永2年(1705年) 太田資晴は陸奥国棚倉に転封。
内藤弌信が陸奥国棚倉より五万石で入封。
正徳2年(1712年) 内藤弌信は大坂城代として転封。
土岐頼殷が摂津国より三万五千石で入封。
享保15年(1730年) 土岐頼稔は大坂城代として転封。
本多正矩が上野国沼田より四万石で入封。
明治元年(1868年) 駿河国への徳川家達入封にともない、安房国長尾に転封となった。

説 明

西益津小学校及び、西益津中学校付近が本丸跡である。 現在の地図を見てもわかる通り、中心から外へ円を描く様に築かれている。

武田氏による縄張の特徴である丸馬出が東西南北に構えられていたが、現在はその遺構は残されておらず市街地に埋もれるように、土塁や水堀の跡が散見できる程度である。

西益津小学校前の道を東へ進んで行くと、「田中城下屋敷」があり、ここが公園として整備され民家に払い下げられていた"御亭"と呼ばれる本丸の二重櫓等が再移築されている。

御亭の写真

御亭(移築 櫓)


所在地: 田中城城下屋敷(静岡県藤枝市田中3)
本丸二重櫓 市指定有形文化財

不浄門の写真

不浄門(移築 城門)


所在地: 旭伝院(静岡県焼津市保福島)

仲間部屋・厩の写真

仲間部屋・厩(移築 その他)


所在地: 田中城城下屋敷(静岡県藤枝市田中3)
市指定有形文化財
案 内
田中城下屋敷(無料)にパンフレットがあり、残された遺構を散策するルートが記されている。最寄り駅(直線距離)
1.7km 西焼津駅
3.2km 藤枝駅
4.0km 焼津駅
7.6km 六合駅
9.7km 用宗駅
所在地/地図
静岡県藤枝市田中1(西益津小学校)
付近の城(直線距離)
1.4km 駿河 八幡山砦
2.1km 駿河 大覚寺殿屋敷
2.4km 駿河 東浦城
2.7km 駿河 越後島殿屋敷
2.8km 駿河 潮城
3.2km 駿河 小川城
3.2km 駿河 横内陣屋
3.5km 駿河 広岡屋敷
3.5km 駿河 左近屋敷
3.7km 駿河 朝日山城
3.8km 駿河 岡部氏館
4.0km 駿河 大揚屋敷
4.2km 駿河 矢部屋敷
4.3km 駿河 松井屋敷
4.3km 駿河 方上城
4.4km 駿河 堀之内陣屋
4.4km 駿河 二つ山北砦
4.7km 駿河 今川氏館
4.7km 駿河 城之腰屋敷
4.7km 駿河 二つ山南砦
4.8km 駿河 三条氏館
4.8km 駿河 遍照光寺城
4.9km 駿河 石脇城
5.2km 駿河 当目砦
最終訪問日
2008年3月
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