築城年代は定かではないが永享年間(1429年〜1441年)に(今泉)若泉三郎によって築かれたと云われる。また、平安時代に平将門によって砦が築かれたとの伝承も残る。
永正13年(1516年)若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の家臣菅谷勝貞によって攻められ、この後は小田氏の家臣菅谷氏の居城となった。
小田氏は小田氏治の頃、佐竹氏に小田城を奪われ、土浦城へ逃れて勢力の回復をはかるが、天正11年(1583年)佐竹氏の軍門に降った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は、結城城に結城秀康を置き土浦を支配させた。慶長6年(1601年)結城秀康は越前国北庄に転封となった。
・慶長6年(1601年)下総国布川より(藤井)松平信一が三万五千石で入封、元和3年(1617年)信吉の時、上野国高崎へ転封。
・元和4年(1618年)上野国白井より西尾忠永が二万石で入封、慶安2年(1649年)忠昭の時、駿河国田中へ転封。
・慶安2年(1649年)下野国鹿沼より朽木稙綱が三万石で入封、寛文9年(1669年)稙昌の時、丹波国福知山へ転封。
・寛文9年(1669年)一万石で諸侯に列した土屋数直が入封、その後四万五千石まで加増、天和元年(1681年)政直の時、駿河国田中へ転封。
・天和2年(1682年)武蔵国より(大河内)松平信興が二万二千石で入封、貞享4年(1687年)大坂城代として転封。
・貞享4年(1687年)駿河国田中より土屋政直が六万五千石で入封、その後九万五千石まで加増され以後明治に至る。
土浦城は現在亀城公園として整備されている。
本丸、二の丸は他の近世城郭、特に平城と比べると小規模な印象を受ける。しかし三の丸や周辺に拡がる曲輪群は広大である。
公園外の遺構としては北にある浄真寺の土塁が残りが良く、神龍寺にも土塁が残っているが墓地に埋もれている。
南門は角馬出で大町交差点のあたりあった。その東側にある東光寺に南門の土塁が残る。北門は新川の近くで石碑のみであるが、この門は枠曲した馬出であった。大手門、搦手門も石碑が建てられている。
北の土浦市立博物館のあたりに駐車場がある。
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