築城年代は定かではないが永享年間(1429年〜1441年)山内上杉氏の被官である長尾景仲によって築かれたと云われる。
景仲の孫景春は関東管領上杉顕定に叛いて古河公方に付き、武蔵国鉢形城に籠った。 顕定は鉢形城を包囲するが、古河公方の援軍もあり、和議となる。 その後も景春は顕定に対抗するが永正2年(1505年)白井城に復帰した。
越後の長尾為景が上杉房能(顕定の弟)を自害に追い込んだ為、永正6年(1509年)顕定と嗣子憲房は為景を討つべく侵攻、景春は為景に応じて白井城で顕定を迎え撃ったが憲房に破れ、柏原城へと退いた。 顕定は一時為景を越中に追いやったが、翌年長森ヶ原合戦で為景に破れ討死、憲房は白井城へと退いたが、さらに景春に破れ平井城に退いた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原の役の時は、北条氏に属していたが、松井田城を攻略した前田利家、上杉景勝の軍勢に攻撃され開城した。
和暦(西暦) | 事象 |
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天正18年(1590年) | 本多康重が二万石で入封。 |
慶長6年(1601年) |
本多康重は三河国岡崎に転封。 武蔵国東方より(戸田)松平康長が二万石で入封。 |
慶長7年(1602年) |
(戸田)松平康長は下総国古河へ転封。 井伊直孝が一万石で入封。 |
元和2年(1616年) |
徳川家康の命により、近江国彦根を継いでいた兄直勝が病弱な為、これを廃嫡とし直孝が継いだ。 西尾忠永が2万石で入封。 |
元和4年(1618年) |
西尾忠永は常陸国土浦に転封。 本多紀貞が1万石で入封。 |
寛永元年(1624年) | 本多紀貞は嗣子無く没し除封。 |
白井城は吾妻川と利根川が合流する地点の北方にあり、吾妻川に面して南へ伸びた台地に築かれている。
西は吾妻川に面した断崖で、南の本丸から空堀で区画されて北へ二ノ丸、三ノ丸、北郭、総郭と続く。本丸の東下にも大きな横堀が巡らされ、二ノ丸、三ノ丸の側面へ続いている。
本丸の虎口は内桝形で石垣があり、外側は空堀に土橋が架かる。土橋の東側は本丸の土塁が大きく北へ張り出し横矢掛けとなる。この外側の堀を「三日月堀」と呼んでいるようである。
二ノ丸、三ノ丸は畑となっているが、空堀は良く残されている。三ノ丸の北にある北郭は城山不動尊が祀られた小丘があり櫓台のようである。
白井城への道標が出ている。源空寺の南側の道路をそのまま南下した終点が本丸で駐車できる。
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