築城年代は定かではないが、康正年間(1452年〜1457年)西郷稠頼によって築かれたのが始まりとされる。
西郷氏は三河守護仁木氏の守護代であったが、文明年間(1469年〜1487年)に松平信光の攻撃を受けて降伏し、信光の子光重を養子に迎えて隠棲した。西郷氏の家督を継いだ光重は岡崎松平の初代となり、三代信貞のときに松平清康との争いに敗れ大草へと退いた。
岡崎城へ居城を移した松平清康のときに本格的な城へと改修された。 清康は天文4年(1535年)尾張守山に出陣中に家臣阿部弥七郎によって殺され、家督は広忠が継いだが、天文18年に広忠が没した後は、今川氏の武将が城代として岡崎城に入り、松平元康は駿府で過ごした。
永禄3年(1560年)今川義元が桶狭間の合戦で敗死すると家康は岡崎城に戻り、織田信長と同盟後三河を平定する。 三河平定後、元亀元年(1570年)家康は遠江浜松城に移り嫡子信康が城主となった。 天正7年(1579年)信康が遠江二俣城にて自刃すると石川数正,本多重次らを城番として置いた。
天正18年(1590年)徳川家康は関東へ移封となると、田中吉政が近江国八幡から五万七千四百石で岡崎城主となった。この時代の田中吉政は豊臣秀次の付家老であった。その後、文禄慶長の役などによって加増され最終的には十万石の大名となる。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長6(1601年) | 田中吉政は関ヶ原合戦の功によって筑後一石三十二万石で筑後国柳河へ転封。 上野国白井より本多康成が五万一千五百石で入封。 |
寛永11年(1634年) | 本多忠利は将軍徳川家光が上洛したさいに饗応、この饗応を喜んだ家光が五千石を加増し、五万六千五百石となる。 |
正保2年(1645年) | 本多利長のとき遠江国横須賀へ転封。 三河国吉田より水野忠善が五万石で入封。 |
享保10年(1725年) | 水野忠之は享保の改革の活躍により一万石を加増され六万石となる。 |
宝暦12年(1762年) | 水野忠任のとき肥前国唐津へ転封。 下総国古河より松平康福が五万四百石で入封。 |
明和6年(1769年) | 松平康福は石見国浜田へ転封。 石見国浜田より本多忠粛が五万石で入封、以後代々続いて明治に至る。 |
岡崎城は乙川北岸の比高10m程の微高地に築かれた平山城で、現在は岡崎公園となっている。
本丸には三重三階の天守が建っていたが、明治に入って取り壊され、現在あるのは昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
本丸から北に持仏堂曲輪、二の丸、北曲輪、北東には隠居曲輪、東曲輪、三の丸、浄瑠璃曲輪、備前曲輪、東には菅生曲輪、北西には白山曲輪、稗田曲輪などがあった。
東隅櫓(復元 櫓)
天守(復興 天守)
大手門(模擬 櫓門)
国道1号線沿いに有料駐車場がある。駐車場はかつての東曲輪にあたる。
最寄り駅(直線距離)